触れたいと思うのは、いけないことなのだろうか ?


















「―――…本気か」

蓮は恐る恐る呟いた。
眉間の皺がいつもより少し深い。
テレビの画面が、やけに眩しかった。

時刻は夜。
葉やホロホロ、要はいつもの仲間達に「飲もうぜ!」と半ば強引に誘われ、結局何だかんだと酔い潰れた彼らを送り届け、 悪態をつきつつ帰宅したのが先刻のことである。全く、彼等は何年経っても変わらない。 …とは言いつつもその彼らと付き合っている自分も、相当物好きだ。世間では腐れ縁と言うらしい。
既に近隣の住居からは灯りは消え、住宅街はひっそりと静まり返っていた。
そんな中、自分の家の窓だけは皓皓と明るかったので、てっきりまだ起きているのかと思ったのだが。

「…テレビぐらい消せ。ばかものが」

ため息を漏らしつつ、リモコンでスイッチを切る。
ぷつんと言う音と共に、一気に室内に静寂が降りた。
聞こえるのは己の呼吸と、もうひとつ。
微かな寝息。
彼女の。

「おい、。風邪ひくぞ」
「………」

ソファで丸まるようにして寝入っているの肩を揺さぶる。しかし起きる気配はない。
髪が仄かに湿っていた。
どうやら風呂上りのまま、ここで眠ってしまったらしい。
彼女らしいとは思いつつも、このままでは身体が冷えてしまうのは必至だ。

「おい、―――」
「ん…」
「っ!」

不意にがぴくりと反応を示し、蓮の指先が彼女の頬に触れた。
思わず手を引っ込める。

……条件反射、だった。

驚きで跳ね上がった心臓が、たくさんの血液を顔に集めていくのがわかる。

「………」

ち、と小さく舌打ちをする。
勢いで引っ込めた手を、もう片方の手でそっと握り締めた。
そして、呟く。
小さな小さな声で。

「……人の気も、知らんくせに」

唇を噛む。
ああもう。
顔が熱いのは、酔いが残っているせいだけではない。
わかっている。
それぐらい、わかっているんだ。
ゆっくりと、大きく息を、吐く。

そして、目の前の安らかな寝顔を、黙って見つめた。





彼女と同じ屋根の下で暮らし始めてから、どれくらいになっただろう?
自分が望んだことだった。
そして彼女も喜んでいた。
嬉しくないなんて言ったら大嘘だ。
……そんな感情表現を素直に出来るほど、できた人間でもなかったのだけれど。

なのに。

俺はそこまで、純情な人間でもなかった筈  なのに



この罪悪感は、何だ?
伸ばした手を思わず引っ込めてしまうほどの この想いは





じれったくて     本当は、触れたいのに

歯痒くて     欲しくて欲しくて

後味の悪い感情     求めてしまう、仕様がないくらいに





触れるのが、怖いんだ。
君に触れるのが怖いんだ。
大切で大切で、本当に大切な君だから、


だからだろうか。
最近あんなにも望んでいたこの家へ帰る時間が、どんどん遅くなっていく。
今日はまだ大丈夫だったが、あくる日には日付さえ変わった頃に帰宅したこともあった。
自覚は、あった。確実に。
彼女と顔を合わせる時間が、どんどん少なくなっていく。
たとえ早く帰って来ても、玄関から自室に直行した。



『お前、優し過ぎるんよ』



ふと、さっき酒に酔いつつ言われた葉の言葉を思い出した。
その時彼は―――そう。確かに苦笑していた。

(……違う。違う)

そうではない。





こんなにも、
こんなにも人をすきになったのは、初めてだったから。

想うだけで心があたたかくなることも
想うだけで穏やかになることも

初めて知った、から。



加減を知らない。
どう調整すればいいのかわからない。
無意識に感情が溢れ出てくるから。

傷つけたくない。
怖がられたくない。

ただ臆病なのだ。




―――酒が入ると意地も矜持もなくなるらしい。
思わず葉にそう漏らしてしまった。
酔いの醒めた今思い返すと、相当みっともない様だ。


そのあと葉は、何と返してきた?


思い出せなかった。





「……ん…―――…」

小さな呻きと共に、が寝返りを打った。
思わずその顔を見つめて―――不意に、思い出した。





『最近の奴、表面上はいつも通りなのに、時々さびしそうなんだってよ』

『アンナが言ってた』



いつもへらへらしている彼にしては、珍しく真面目な口調だった。




「………」

そうだ。
何故こんなところで彼女は寝ているのだろう?
寝室は別にあるのにも関わらず。

何故、


「……ん、………あ、れ……蓮…?」



ハッと我に返ると、目の前に眠そうに目を擦る、の顔があった。
驚いた。

「……」

ただ、そう名を呼ぶのが精一杯で。
すると、が眠気交じりに微笑んだ。

「―――あ、そっか」
「………」
「あたし寝ちゃったんだ……ごめんね」

何故
何故
彼女は謝るのだろうか。

「今日は起きてられると思ったんだけどなあ…」

ふあ、と欠伸をしながら、小さな声でが呟いた。
―――思わず耳を疑う。
『今日は』?

じゃあ、今まで―――

「でも、よかった。今日はちゃんと蓮に会えた」

うっすらと腫れた目で。
彼女は言う。
嬉しそうに。
そして立ち上がると、

「じゃあわたし、部屋で寝るね。あんまり夜更かししちゃ駄目だよ」

はほんの少し、遠慮がちに笑って言った。



あ―――






『お前だけが“好き”なんじゃないんだぞ』






葉の言葉がこだました。


蓮の横をすり抜け、がリビングの扉に手をかけて、開ける。

「あ、そうだ」

ふと何かを思い出したように、止まる。
そのまま蓮の方を振り返って。


微笑った。


「おかえり、蓮」

その時何日ぶりかに―――彼女の目を、しっかりと見た。
瞳の中の自分を、見つけた。




いつだって彼女は
こうして受け止めてくれようとしていたのに





「待―――待てっ!」
「え?」

気付いた時には、身体が動いていた。
その細い腕を、掴んで。

寂しげだった瞳が、今度は驚きで一杯に見開いて蓮を見つめる。

「れ、れん……? どうしたの…?」
「あ…」

一瞬で頭が真っ白になる。
掴んでいた手を慌てて離す。
何をやっているんだ。
こんな、こんな

「蓮?」
「あ、いや…」

躊躇して、逡巡して。
そうしてやっと

「――――…ただ、いま」

たったひとことだけ。
彼女へ伝える言葉にしては、足りなさ過ぎるくらいの。
なのに、彼女はしばし固まったあと。
まるでそれまでの寂しさなど一瞬に掻き消してしまうくらいの、笑顔で言った。

「…うん」



嗚呼―――






たいせつ、なんだ。ほんとうに。

あいしてるんだ。







口が勝手に動いていた。

「……明日は早く帰る、から」
「うん」

そんな愛想のない自分の言葉にすら、嬉しそうに頷いてくれる。

「――じゃあ、一緒にごはん、食べれるね」
「…ああ」

どうすれば良いのかはわからない。
だけど。
今までの自分の行動が、どれだけ彼女をひとりにしていたかは、わかったから。

だから、せめて。

「……髪」
「え?」
「乾かしてから、寝ろ。風邪をひく」

少しずつ君に、近付いていけたら。
そう、また昔みたいに。

傷つけたくはない。
怖がらせたくはない。

だけど――

離れたいわけじゃ、ないんだ。



「―――…うんっ」



やっとわかったから。






そしてやっと



辿り出す

(大切過ぎるきみを、想うよ)