毎日が平坦だ。
あの事故にあってから。





最初の内はリハビリに精を出し、動く気配のない足に力をこめて、必死で足掻いた。
けれどいつまで経っても、治る気配はなく…

その内、僕は歩くことを諦めた。

余計な望みなんて持たない。
期待なんかしない。
…けど、当の本人が諦めたのに、なかなか周りの大人はしぶとかった。
例えば、僕の親。
例えば、僕の担当医。
例えば、毎日巡回に来てくれる看護婦さん。

僕もう歩けないんだよ?
だってほら、こんなに力をこめているのに、ぴくりとも動く気配がないじゃないか。
ずっと麻痺したままなんだよ。
わからないかな。

―――ああもう。
大人は、ばかだ。










□■□










「あーあ……鳥になりたいな」

リハビリが終わると、病院の屋上にのぼり、青空を眺めるのがここ最近の僕の日課だった。
ぱたぱたとはためく真っ白なシーツが、視界の端っこに見える。
鮮やかな蒼と白のコントラスト。
…今日も快晴。言うことなし。

車椅子の車輪を動かして、手すりに近付く。
そよ風がふわりと頬を撫でた。
広がる青空を、翼をはためかせ悠々と飛んでいく、鳥達を見ながら。

「鳥になって、この空を飛んでみたいなぁ…翼があれば、足なんていらないもんな」

そう、ぽつりと零した時。





「―――あなた、それ本気で言ってるの?」





「う、うわあああああビックリした! …………き、君…誰? ココに入院してる子?」

シーツに負けないくらい、真っ白なワンピース。
風に揺れる、長い髪。
見たこともない少女が、いつの間にか僕の隣に、いた。

思わず口走った誰何の言葉に、しかし少女はフンと鼻を鳴らすと、

「鳥になりたいの? やめときなさい。そんな、妄想」
「無視しないでよ…。
 ていうか……人の願望に勝手にケチつけないでよ。何様なんだよ君?」
「あたしはあたしよ。
 …まったく。ケチもつけたくなるわよ、そんなちゃっちい妄想」

妄想、という言葉を不要なほど強調する。
これには流石の僕も、かちんと来た。

「妄想妄想って……何だよ。知った風な口きくな!」

勝気そうな瞳を、真っ向から睨みつけた。

ああ、この子もなのか。

「別にいいだろ! 僕のことなんか―――っ何も知らないくせに!」

何も知らないくせに。
知ろうともしないくせに。
わかったような気になって、物を言う。

僕の周りにいる大人たちと、同じ。

しかし、少女は悪びれた風もなく言った。

「知らないわよ。別に興味もないしね。――ただ、これだけは言っといてあげる」

不意に少女の声がスッと低くなった。
真っ直ぐな視線が、僕を射抜く。

その一瞬――風すらも、動きを止めた。

「鳥になりたいだなんて、やめときなさい」

その余りの真剣さに。
その、覆い被さるような静けさに。
思わず僕は口を噤んだ。
まるで何かに気圧されたみたいに。

…気圧された?
何を言ってるんだ。相手はただの女の子じゃないか。
そんな子に押される、なんて。

(…落ち着け、僕)

―――それにしても。
この子は一体誰なんだろう?
年の頃は、僕と同じくらいに見える。
でも……初対面でこんなに偉そうにしてる奴は、正直見たことがない。

「聞いてる?」
「………」
「あら、無視するの?」

ぎゅ。

「……いてててててて! 何するんだよ!」

突然走った尋常でない頬の痛みに、僕は悲鳴を上げた。
だがやはり、少女にはどこ吹く風のようで。
抓る手はそのままに、しれっと告げる。

「何って……ほっぺた抓っただけじゃない」
「君、さっき僕のこと無視したくせに、自分が無視されると怒るのか!?」
「そうよ。悪い?」
「悪い! 凄く悪い!」

こんな理不尽なことがあってたまるか!
屈服したら、男としての沽券に関わる。

…と、思ったが。

「あーもう、五月蝿いわねえ」
「痛い痛い痛い! 言いながら抓るな!」
「じゃあ黙りなさい」
「め、滅茶苦茶言うなよ! 君が手を離してくれりゃ僕だって――」

「黙れ」

告げる声は限りなくにこやかに。
だけどその瞳を見て――僕は思わず、口を閉じた。

(…屈服、してしまった…)

幾らなんでも呆気なさ過ぎるだろう、僕の根性…
女の子に口で負けるなんて。
しかも、訴訟を起こしたら全世界の人が味方してくれそうな程、僕には全く非のない内容だったのに。
くそう。どれだけ弱いんだ、僕。

そう内心落ち込んでいると、やっと頬が解放された。
じんじんと熱を残したまま。

ちらりと少女の方を見てみる。
彼女は、えらく満足げな表情をしていた。

なんだか――
口先だけではなく行動も偉そうな子だ。
性格自体に問題がある子なのだろうか。
親は大変だろう。
と言うか、それこそ親の顔が見てみたい。そして是非とも文句を言いたい。

「……何考えてるの」
「いや別に何も。」
「あーあ。まったくもう………ばっかみたい」

大仰なため息と共に、少女は呆れ声で言った。
しかし、これほど今の僕の心情にとっても、ぴったりな言葉はない。

「……それはこっちの台詞だよ」
「なによ?」
「別に」

―――これが、僕と彼女の、最初の出会い。



ロマンの欠片もないただの廻り合わせ。
本当に、今思い出しても情けない出会いだった。










それから、時々この屋上で彼女と顔を合わせた。
別に好きで会っていたわけじゃない。
まず出逢った瞬間の印象が既に最悪だったから、僕としては正直会いたくなかった。

だけど。
僕がリハビリ後、ここに来て空を見上げていると、いつの間にか彼女はそこにいた。
最初の時と変わらない、勝気で気の強そうな笑みをにやにやと浮かべて。

たまに、いきなり後ろからどつかれたりもした。
当然の如く僕は抗議をしたけれど、言うまでもなく全て聞き流された。

会うたびに僕らは何かと口喧嘩になった。
…声を荒げたのは、いつも僕だった気がしないでもないけど。
だって彼女は、いつだってその傲岸不遜な態度で、不敵に笑いながら、実にあっさりと人の主張を流したから。

そう。
彼女はいつも尊大だった。それは、間違いない。
いつも上目線で、僕を見下し、無視するくせに無視されることは嫌う、まるで世界の中心が自分だといわんばかりの態度。
気付いてみれば、何処から来たのかも、その名前すらも知らない。

だけど、別にそれでもいいと、思った。
なんだか余り気にすることじゃないと思った。











「なーに、空なんか見上げて。また鳥になりたいだなんて、下らないこと考えてたんでしょう?」

からかうような声が、今日も隣から聞こえてきた。

「別にいいだろ。何だってそんなに、僕に絡んでくるんだよ。鳥になりたいって思うことが、そんなに駄目なことなのか?」

毎日のように会っていれば、耐性もついたのだろう。
最初の頃ほど、余り怒らなくなった。
気にならなくなった。
我慢強くなったんだろう。偉いぞ、僕。
…単に慣れただけなのかもしれないが。

「だめよ。だめ。当たり前じゃない」

彼女が小さくかぶりを振る。
風に流されて、綺麗な髪がふわりと広がった。
その仕草すらも、既に見慣れていた。

そう、慣れてしまったから

「……なんでだよ?」
「わかんない? やーねえもう」

その時彼女は笑うだけで、教えてはくれなかった。

君と言う存在を、当然だと思ってしまっていたんだ










□■□










単調なやりとりが、今日も繰り返される。





ガシャン。

「っつ……」

地べたについた手が、じんと熱を帯びる。
一瞬、目から火花が散る錯覚を起こした。
先生が白衣を翻しながら、ぱたぱたと駆け寄ってくる。

「瑞貴くん! 大丈夫か?」
「……はい、大丈夫です、先生」

抱き起こされて、僕は再びふらふらとリハビリ用の手すりに掴まった。

(ああ、くそ…)

「まだまだ先は長い。…でも、諦めちゃ駄目だぞ。絶対に歩けるようになるんだ」

そう力強い言葉で言ってくれる、先生。
横で母さんが、優しく微笑みながら、

「そうよ。頑張って、瑞貴」

必死で励まそうとしてくれる。

「うん…」



頷くことしか出来ない、自分。



いつからだろう。
先生の言葉も、お母さんの言葉も、すべての人間の声が―――心に響かなくなったのは。
励まされれば励まされるほど。
支えてくれれば支えてくれるほど。
言葉から色が抜けていく。
まるで空気のように透明になっていく。
色を失くした言葉は、ただ耳から入って、脳を素通りした。

その余韻すら残さずに。





歩けるわけ、ないんだってば。





『また鳥になりたいだなんて、下らないこと考えてたんでしょう?』

不意に彼女の声がよみがえった。

…違う、違うよ。
下らないのは僕じゃない。
往生際の悪い、この人たちだ。










□■□










真っ青な空のキャンパスに、真っ白な飛行機雲がひとつ、細く細くたなびいている。
太陽は変わらずただ穏やかに、街を照らしていた。
遠くに聞こえる、車の音。
人のざわめき。
たくさんの生活音。

「―――しょーねん! 何かお悩みかい?」

おどけた声が背後からした。
振り向かなくたってわかる。

「…僕が考えてることなんか、もう充分わかってるだろ」

青空に目を向けたまま、僕は無愛想に答えた。
すると、くすくすと笑い声が近付いてきて、隣に並んだ。

「ええそうね。鳥になりたいんでしょ」
「そうだよ」

鳥に、なりたい。
空を飛びたい。
無性にそう思うのだ。リハビリの後は、特に。
歩くことを剥奪された自分には、空を翔る鳥が何よりも自由に見えて。
どうしようもなく、羨ましかった。

僕の様子に、いつもと何かが違うことを感付いたのか――
少女が不意に真面目な声で、尋ねてきた。

「……足が、動かないから?」

動かない僕の足。
どんなに力を入れても、動いてくれない足。
ちょっと前までは、そんなこと思いもしなかったのに。
叶うなら、時間よ戻れ。
だってそうすれば―――

こんなに歯痒い思いも  しなくて済んだのに。

「そうだよ。もう動く筈ないのに。僕の足だ。それぐらいわかる。余計な期待なんかしたら、つらいのは僕なんだ。苦しむのは、僕だけなんだ。
 …なのに先生も母さんも、僕にいつかきっと歩けるからって言う。無駄なリハビリを繰り返させる。―――無責任だ」

ああだめだ。
止まらない。

抑えてきたものが、ふつふつと込み上げてくる。
心が悲鳴を上げる。

「どうして?」
「自分の足に期待して、裏切られて、そうして一番ショックを受けるのはきっと僕自身だから」
「…ふうん」





本当に…本当に、無責任だ。先生も母さんも。
僕をリハビリに駆り立てる全ての人たちが。
歩けないのに期待して、結局一番苦しいのは、僕なのに。
いつか歩けるからって……

なら僕になってみればいい!
この足を動かそうとしてみればいい!
思い知れ。
どれだけ力を入れても、どれだけ動かそうと必死になっても―――全く動かないこの歯がゆさを。

そうしてまた絶望を味わうんだ。
この病院で最初に目覚めて、足が動かないと告げられたあの時みたいに。





「……鳥になったって、飛べないわよ。あなたは」

少女の声に、ハッと我に返る。
じっと此方を見つめてくる視線が―――初めて、痛いと思った。

「…なんでだよ」

その空気を打ち払おうと、僕は必死で言い返した。
…なんだろう。
何でこんなにも、居たたまれないんだろう。
まるで――僕が何か悪いことを言ってしまったような。

少女がひょいと肩を竦めた。

「重すぎるもの」
「……失礼な。僕はこれでも、細い方だ」
「あーもう。そういう意味じゃないの。―――あなたは、重すぎる」

痛いほど真っ直ぐな視線と。
静かで、真摯な声。
それが今の彼女を物語るすべてだった。

「………意味わかんないよ」

正直にそう答える。
すると、少女が明らかに呆れたため息を寄越した。

「わからないなら、わからないままでいいわ」
「何だよそれ」

…おかしな奴。
自分から言ってきたくせに。
こっちが意味を聞き返せば、こうやって適当にあしらう。

まるで僕を見放したみたいに。

(……くっそ)

別にこんな生意気な奴、好きでも何でもないのに。
心に忍び込む、一抹の冷たい風は、なんだ?

彼女はそんな僕に見向きもせず、ただ遥か前方に広がる街並みを見つめながら――
ぽつりと、呟いた。

「……人もね、身軽になれば空なんて飛べちゃうのよ。…身軽になれば。
 背負ったものも抱えたものも、全て捨てられたなら――この世の人としてのしがらみを、全て断ち切れたなら」

何故だろう。
一瞬、ほんの一瞬だけ。
あんなにも憎らしく思っていた横顔が――

酷く、寂しげに見えた。

瞳が儚く揺れていた。

「――だけどね。
 それを捨ててしまったら。人としてのしがらみを、全てなくしてしまったら…
 それはもうきっと、人ではないの。人ではなくなってしまうの。
 しがらみのない人なんてこの世にはいないから」

冷たい風が吹く。
白いシーツが、ワンピースの裾が、ぱたぱたと翻る。
青く抜けるような空に。
澄んだ声が、吸い込まれていく。

「だから人は飛べないの。鳥にはなれない。なれるわけがないの。
 人は人として、背負うものがあるから。
 抱えるべきものがあるから。
 地を這うしかないの。
 重い躯を引き摺って、泥だらけになって、傷だらけになって、でもだからこそ―――




 人は、人でいられるの」

「…君、は」

ああ、この子は――
一体何を、背負っているんだろう?
その華奢な肩には、どんな重荷があるんだろう。

改めて気付かされる。
そういえば僕は―――この子のことを、何も知らないんだ と。

しかし少女は続ける。
何者にも汚されない、凛と強さを秘めた声で。
それでいて…今にも泣きそうな、声で。

「あなたはずるい。
 折角生きていて、希望もあるのに。人でありながら、鳥になりたいだなんてわがままを言う。
 鳥になったって……幸せになれる保障なんかないのに」

その声に。その表情に。
ほんの少しだけ揺れている瞳。だけど、そこには僅かな怒り。
哀しみと怒り。二つを兼ね備えた、複雑な彼女の双眸に。

呑まれそうに、なる。

だから僕はたぶん―――最後の抵抗を、したんだ。

「……っでも、僕はもう歩けないんだ。歩けないんだよ!
 つい一ヶ月前までは僕もみんなと一緒に、サッカーやったり野球やったり、一杯駆け回ってたんだ!
 なのに、下らない飲酒運転なんかのせいで…僕の足は動かなくなった!
 もう、歩けないんだ!
 これからリハビリしている最中に、友達も沢山来る!
 みんな口には出さないけど、僕を見て思うんだ! かわいそうにって!
 この前までは一緒に遊べたのに、かわいそうにって!
 そして、ああよかったって思うんだ。自分じゃなくてよかったって!」

彼女が何かを秘めているように。
僕にだって、本音はあった。
ただそれはずっと誰にも言えないまま、心の奥底でずっとひた隠しにしてきたものだった。

あれはいつのこと?
クラスの友達が、各々の母親に連れられて病室にやって来て。
その手にはサッカーボール。
足には泥だらけのスニーカー。
今でも覚えている。
母親達の目つき。
同情と憐憫と、ほんの少しの安心と。


  嗚呼、僕、は、

「…誰がもう一生歩けないだなんて言ったの?
 先生? お母さん? 友達? 看護婦さん? それともこの病院に入院してるおせっかいな誰か?
 誰かに言われたぐらいで歩けなくなるのなら、今度はあたしが言ってあげる。
 ―――あなたは歩ける。絶対、歩ける」
「五月蝿い! 僕の気持ちも知らないくせに!」
「知りたくもないわよそんな下らない気持ち!」

僕は怒鳴る。
だけどそれ以上に―――

彼女は、怒っていた。

「ぐちぐちぐちぐち…気持ちが悪いったらありゃしない!
 ずるいずるい、貴方は生きているのに! なのにそんな下らないことばっかり考えてる!」

怒っているはずなのに――何故か声は、今にも壊れそうなほど脆くて。

彼女はキッと僕を睨みつけて、手すりの向こうを指差した。

「そんなに苦しいならいっそのこと、そこから飛び降りなさいよ!
 運がよければ、鳥になって飛んでいけるんじゃない!?」

その挑発的な言い方に、僕もとうとう切れた。

「ああ言われなくたって行ってやるさ。
 このままこうやってぐだぐだやってたって仕方ないもんな!」
「どうせあなたみたいな重たい奴、地面に激突するわ」
「それでもかまわない!」

頭に血が上って、目の前がくらくらする。
僕は青空に向かって、勢いよく車椅子を動かした。
それは躊躇いなく空気を切り裂き――――真っ直ぐコンクリートの手すりに、激突する。



ガシャン。



身体が宙に浮いた。
ゆっくりと、スローモーションのように空が動く。
軽い僕の身体は車椅子から離れ、手すりをやすやすと飛び越えた。

あんなにも望んだ場所が、この先にある。

ふと振り返れば…
泣きながら此方をじっと見つめる、強い双眸とぶつかった。

(……きれい、だ)

場違いな感想を抱いた。
透明なガラスのように、脆くて、壊れやすくて―――でも一切の穢れがない、芯まで澄み切った瞳。

(そんな顔も、出来るんじゃないか)

まるでこの空みたいだと、思った。




















「―――…ほらね。飛べなかったでしょう?」

「うん……まさか、手すりの向こうにまだ屋根があっただなんて。
 ――車椅子に座ってたときは、全然気付かなかった…」

僕は空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
汗が全身から吹き出ていて、気持ちが悪い。
背中に感じる硬いコンクリートの感触に。
僕は、生きている実感を、覚えた。

頭上には、いつのまにか手すりに肘を乗っけて、此方をにやにや笑いながら見つめる彼女の顔。
そこに、先ほどまでの、あの脆さは全く見えない。

息を、する。
張り付いた髪に、風が心地よい。

いつもの彼女と。

いつもよりも少しだけ冷静になった、僕がいた。

「はは。何か、ばかみたいだよ、ほんと。…本気で飛べるって思ってた。
 飛べるわけ、ないのにね。空ばっかり見上げて現実逃避してた、重たい人間なんか。
 それで結果がこのザマ。
 ははっ、あははははは、は、…―――



 ―――――あーあ。僕、君が言ったとおり馬鹿だった」

僕は、寝転んだまま広がる青空を見つめた。
遠い。
遠くて、綺麗な、空。
自分がどうしようもなくちっぽけだということを、実感する。

そんな感慨をよそに、彼女がいつものあの尊大な態度で、くす、と笑った。

「今更、気付いたのねえ」
「まあね。  ……あ、ねえ。多分君は断るだろうけど」
「何よ。断るのわかってるんだったら頼まないで」
「そういわないで。……僕を起こして、車椅子まで運んでくれない?」

しかし、彼女は意地の悪そうな顔で、首を横に振った。

「やあよ。だってあなた重たいもの。―――空も飛べないほど、ね」

「……あはは」
「ふふっ」

僕らはいつしか、青空を見上げながら笑い声を上げていた。
そよ風が優しく僕らを包む。
彼女の瞳は、もう涙は乾いていた。
僕の瞳は……

少しだけ、濡れていた。

なんだか無性に、おかしかった。
笑って、笑って、お腹が痛くなるほど二人で笑った。
青空を見上げながら。
地べたに足を、身体をつけながら、僕らは笑った。

「…ねえ少年」

ひとしきり二人で笑った後。
ふと、彼女が口を開いた。

「何?」
「あたしにも下らない悩みがあるの。聞いてくれない?」

そのややおどけた口調に、こんな彼女にも悩みはあるのかと、大いに好奇心が刺激された。

「へえ…言ってみて」

僕が促すと。
彼女は、微笑んだまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あたしもね―――ほんとは、人間になりたかったわ。あなたと逆。
 だって人間は翼がなくても生きていけるもの。
 あたしは、翼がなくなったら生きていけない。死ぬしかない」

哀しい、笑みだった。
だけどどこかその笑顔には。
何かが吹っ切れたような、清々しさを含んでいて。

「でも、違うのよね。鳥が、人間になれるわけないの。
 だって、鳥は鳥としてのしがらみを持って生まれたのよ。人が人として生まれ、人として生きていくように。
 そんな当たり前のことに気付かなくて………あたしは、絶望した。
 ばかよね。翼がなくなったとき、あたしは全てを諦めたの。生きようと足掻くことすら、しないで」

最後の言葉には、僅かに自嘲を滲ませて。
彼女は、告白を続ける。
しみじみと。
それでも、真っさらな笑顔で。

「あなたが羨ましい。羨ましくて羨ましくて、仕方ない。
 あなたは生きているから。翼もなく、足も動かないけど……生きてるから。
 それに、あなたにはまだ希望がある。歩けるという、希望が」

―――ああ、こんなにも。

こんなにも、純粋に微笑う奴なんて、いるんだと。

………嗚呼そうか。君は、

「ねえ。もう飛び降りたりとか、ばかなマネしないでよ。もったいないわ。
 生きてるってことは、まだ努力できるってことなのよ。
 死んじゃったら、後悔しても遅いの。もう努力すら出来ないんだから」

彼女のからかうような声に。
僕は、頷いた。
何故か頷くことしか、出来なかった。

「……わかった」

それを見届けると、彼女は至極満足そうに両手を広げて、屋上を歩き回り始めた。
くるくると、踊るように。
軽やかな足取りで。

僕の周りを、歩く彼女。
はためくワンピース。靡く髪。
太陽の下で、白く輝く肌。

まるで、飛ぶように。

一通り回ると、ぴたりと彼女は足を止めて、僕の顔を覗き込んだ。
そして言う。
この上なく、自信たっぷりに。

「ふふっ。
 あなた、きっと歩けるわ。あたしが保障してあげる」
「……それはまた、信用ならない」
「何よ?」
「なんでもないよ」

そのやり取りさえも。
こんなにも―――切なく感じるのは、何故だろう?
何故か胸を、ぎゅっと鷲掴みにされたような感じ。

そうまるで
お別れの時が来たみたいに。

「……頑張りなさいよ」

彼女の声が、その一瞬だけ、酷く優しげに聞こえて。









「うん…あ―――あれ…?」









僕が彼女から眼を離した、その一瞬に。
彼女の姿は、忽然と消えていた。

(最初からそこにいなかったかのように)

見回しても、もうあの尊大に笑う顔は、どこにもなくて―――ただ、空だけが、果てしなく青かった。



それが、彼女との最後だった。



「……あれ? これは……?」

僕は彼女がいた場所に、何かが横たわっているのを見つけた。
ずりずりと少しずつ身体を引き摺って、近付いてみる。

それは、小さなすずめの亡骸だった。
カラスに襲われたのか、何かにひっかかったのか。
どちらにしろ、そのすずめにもう息はなかった。
羽が傷ついた時点で、悟ったのだろう。
自らの運命を、彼女は。


打ち寄せる、記憶の波


思い出した。

僕が、事故にあった時のことを。 そして―――ずっと、事故にあったという衝撃で忘れていたことを。

あの時僕は、目の前をふらふらと力なく滑空するすずめを見つけた。
思わず放っておけなくて、追いかけて―――手を伸ばした瞬間、酔った運転手が僕に気付かず、突っ込んできたのだ。
次に目が覚めたのは、この病院で。既に手術が終わった後だった。

そのすずめがその後どうなったのか……

それは彼女を見れば、わかる。





その夜、僕はその小さな亡骸を、病院の庭の隅に埋めた。










□■□










「もう少し……よーし、頑張れ、瑞貴くん!
 もう少しだ、もう少し………おっとっと、大丈夫かい!?」

不安定な僕の足取りに、しかしすぐに手を差し伸べはせず、先生が尋ねた。
僕は首を振り、安心させるように穏やかに笑って答える。

「大丈夫です。ちょっとまだ、足元がおぼつかないだけなんで」

その言葉に、先生も笑顔になった。

「そうか。しかし最近、よく頑張るようになったな」
「…はい。約束したんです。頑張るって」
「約束? 誰とだい?」

先生が、不思議そうに首を傾げる。

僕の脳裏に浮かぶのは―――真っ白なワンピースと、長い髪。
その後ろに広がる、大きな蒼空。

「いつも偉そうに人のこと見下してて、二言目にはばかだとか下らないとか、人のこと貶してばっかりの…」

広大で…尊大な。

「―――すっごく、いい奴です」

「ふ、ふうん…?」
「それに、僕また歩きたいから。僕自身が、そう望んでいるから。
 まだチャンスがあるんだ。…歩けるように、なるんだ」

言いながら、胸の奥に熱い何かが滾ってくるのを感じた。
それは少しずつ四肢に広がり―――いつしか身体を動かす原動力となる。

「そうか……頑張れよ。先生も出来る限りの応援はするぞ」
「はい。ありがとうございます!」





それでも――時折り懐かしさが、胸を掠める。
それはほんの少しの寂寥感と。
ほんの少しの、切ない気持ち。

もし今ここに彼女がいたら、今の僕を見てどう思うだろう。
何と言っただろう。
やっぱりまた見下したように鼻で笑うのかな。
やっと本気になったのかって。
それとも、約束破らないのは当たり前だって、言うのかな。



名前も知らない彼女。
あのとき―――飛び降りようなんて馬鹿な真似をした時、もしそのまま落ちて死んでいたら、僕はどうなっていたんだろう。



君のお陰で、僕はここにいる。




















今日も屋上にのぼって、僕は空を見上げた。
ここから叫べば、届くだろうか。










ありがとう、と。